神楽神社


             南方熊楠珍種の藻発見の池跡
  
  
文里の浜
 旧湊村のこのあたりは、扇ヶ浜に続く文里の浜で、白砂青松の景勝の地で、熊楠はたびたび植物採集に訪れていました。
 神楽神社の森の裾にはため池があり、その池で珍種の藻を発見しました。 境内には「南方熊楠珍種の藻発見の池跡」の碑が建っています。
 かつては鬼橋岩とよばれる、岩山の一部が波の浸食によってくり抜かれてできた岩の橋がありましたが、崩壊の危険のため昭和58年に撤去されました。
  鬼橋巌 鬼橋巌
  鬼橋巌跡
 
 
写真裏書
(十) (十七)も仝じ
  西牟婁郡湊村神子の浜 
  神楽神社    (南方二書三九頁)
この鬼橋巌といふ橋如き巌のあちらに神楽神社あり。此辺で太古に人牲を供え鬼神を祀れりといふ。数年前、古塚よりインベ多く掘出し、跡を全滅せし人あり、「二書」三九頁にいふ如し。此辺絶景の地なり。巌より此方にまた日吉神社あり。神林蓊鬱として珍植物多し。此二社は神林共に小生抗議し今に残る。然れども郡役所よりは、ひまさえあらば、滅却伐木せしめんとし、神林追ひ追ひ減じ枯れ行く。五ヶ月ばかり前に堀といふ郡書記、厳しく村民に合祀を逼りしが、神職合祀の為に村民の機嫌を損ぜん事をおそれ辞職を申し出づ。その堀といふ奴は三ヶ月ばかり前に大熱病を発し、別嬪の妻と数人の子を遺し地獄え旅立り。「南方二書」二〇に見えた通り、此もの元は巡査にて、合祀せずば入牢させるとて人民をおどし、多く神社潰せしなり。

    
    


日吉神社
 日吉神社は、古くは山王権現と呼ばれていました。熊楠はこの神社の社叢が特異な形態であるとして隣接の神楽神社の森と共にその保全を強く呼びかけました。
 
   
    
 
南方二書での言及
 当地に近き神子浜という所に神楽神社というあり。小生土伝を考えて、必ずこの近地に古塚あるべしという。二年前にこれを聞いてその地を買収し、夜分ひそかに発掘してインベ十一を得、私蔵する人あり。それより小生は、かかることを話すは反って科学上有益の古蹟の滅却を早むるものと思い、そんなことを一向言わずにおる。この他考古上小生気づきし塚など多し。昨今も一、二見出だし、盛んに堀りおり、警察署へ届けよというに届くるも受け付けずとのことで、つまり発掘品は散乱さるるの外なし。前年、和歌浦で貴人の塚と覚しきもの七、八箇、ならんで掘出せしを見し。小生少慾な男かつ後難を恐れ、何一つ貰い置かざりしは遺憾なり。掘出物は全く散乱せり。定めて由緒ありしものならん。また、なくとも学術上の参考品たること無論なり。また当国第一の官幣大社日前宮の横を十年前に歩みしに、田畑の中そこにもここにも古塚だらけなりし。しかるに、昨夏往き見しになし。この大社の宮司は神社濫滅の総発頭人だけありて、銭にさえなれば何でもよし、と何の気もつかず開拓破却せしなり。古土器など地下に置きたりとて何の功もなきものなれば、これを掘り出して世に彰すは埋めし人の面目ともなることならんも、今日のごとく胡論に堀り次第、採り次第、売り次第というは、はなはだ学術上に損害ありと思わる。

    
    
  寄り道
磯間岩陰遺跡
 磯間岩陰遺跡は田辺湾の奥にある田辺市の南東部に位置し、かつて海岸に突出していた東西約50メートル、南北約200メートルの第三紀の軟質砂岩からなる独立丘陵の西側崖下の海食岩陰にある。
 昭和44年11月、岩陰周辺で地主が増築工事に伴い、人骨や須恵器等を発見したのが端緒となり、昭和45年3月から一か月間調査をおこなった結果、この岩陰のなかに古墳時代の中期の終わりから後期にわたる石室墓があり、13体の人骨が合葬または追葬されたものや火葬墓等を含む岩陰墓であることが判明した。なかでも副葬品のなかには優れた鹿角製品があり、地方の葬制を知る貴重な遺跡であることが明らかとなったのであった。
 近年この周辺部は宅地造成、海岸の埋立て工事によって景観は一変した。加えて昭和53三年ごろ、この遺跡のある丘陵の尾根を掘削して宅地造成に伴う道路を通す計画がたてられ、開発の危機に直面したのであった。これは未然に防ぎえたが、遺跡の重要性に鑑み、昭和54年12月18日史跡指定がなされた。
 磯間岩陰遺跡は海食洞で岩陰になつている。その前面幅約23メートル、奥行き約5メートルの規模で現存するものでは和歌山県下最大といわれている。埋葬施設はこのなかに造られ、海食の際にできた棚状になったノツキ跡を巧みに利用して、5世紀の終わりころから六世紀後半まで竪穴石室の系統を引く石室が八基つくられている。なかでも第一号石室は、岩陰のほぼ中央部に岩壁に接して長辺が約216センチ、幅約70センチ、高さ約50センチの規模で、紀ノ川流域産の緑泥結晶片岩と人頭大の砂岩質の転石で石室を造り四枚の天井石を架けていた。この内部に年齢約50歳と推定される男性人骨とこれと差し合わせた状態で幼児が埋葬されていた。副葬品は鹿角製装具の刀二振り分をはじめ鹿角製の釣り針、もり、鳴鏑等の優品が多数あった。これらからこの第一号石室の被葬者は漁労集団の首長であり、他の石室の被葬者はその一族のものとみられる。
最後に人骨については池田治郎博士の研究によると「縄文人的要素の多いひとたち」ということである。


    
    
  海外引揚者上陸記念碑
 文里港は重要な商港であった。戦争中海兵団が神子浜に設置されたのも、また戦後の海外引揚港として指定されたのも文里港が良港であったからである。昭和21(1946)年、全国18港のうちの一つとして指定された文里港は、2月24日台湾よりの第一船を迎えてからその業務が本格化した。実質的には2月から6月の5ヵ月間の稼働であり、この間68隻、22万人余が田辺に上陸し、旧海兵団の建物で検疫消毒を行ない、田辺駅から汽車に乗って郷里へむかったのであった。7月から10月まで引揚援護局が開局していたものの、その後の入港はなく、開局期間8ヵ月で幕を閉じた。昭和60(1985)年に引揚40周年記念行事を行ない、田辺商業高校裏の緑地帯にその記念碑が建つ。

  海外引揚者上陸記念碑 
   
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