母屋

 1904(明治37)年秋、那智での植物採集を終了した熊楠は、本宮から熊野古道を経て田辺にたどり着き、定住することになります。田辺の中屋敷周辺で二、三回転居したあと、1916(大正5)年、 熊楠は借家のすぐ前の家が売りにだされたことを小耳にはさみました。よく聞いてみると、持ち主は旧知の渡辺和雄(旧陸軍中佐、当時海草郡黒江町長)で、売値は4,500円。そこで弟常楠に話して、代金を立て替えてもらい、この家に移ることにしました。現在の南方熊楠邸です。5月26日の日記に「予始て新宅の風呂に入る」とあるので、引越しが終わったのがこの頃と思われます。また、その際、前の借家にあった「博物標本室」を移築しています。この「博物標本室」は自分が設計したもので、使い勝手がよいので大工をやとって解体移築したのです。これが現在「書斎」と呼ばれている建物です。新宅には土蔵もありました。持ち主の渡辺が「立派な土蔵だろう」と自慢していましたが、いざ入って調べてみると、ひどい雨漏りがしていて、屋根屋を呼んで四百枚ほど瓦を葺き足した、といいます。
 邸内には、当時からの樹木も残っています。熊楠はなかでも「楠」にはことのほか愛情を注いでいました。楠は転居してきた当時は勢いもよく、少しの雨なら母屋と書斎の間を濡れずに往来できるほど枝もよく張り、葉も茂っていたそうです。
 
  南方熊楠邸には、2000(平成12)年まで、長女文枝が暮らしており、亡くなったあと田辺市に遺贈されました。熊楠が生活していた頃の姿に戻してほしいというご遺志もあり、当時の姿に改修されています。
改修する際の資料として、旧邸の写真が重要な役割を果たしました。熊楠は1941(昭和16)年12月29日に亡くなり、告別式は31日の午後執り行われました。弔問に来た弟子や関係者は蔵書・標本等の整理に勤めました。これらの写真は、このとき田中敬忠(和歌山県の文化財保護や文化事業の向上と普及に尽力)により撮られたものです。
  
  
改修の様子
 書斎と土蔵 没後
 改修前
 改修後
  
  
南方熊楠邸の建物
  
   
門と壁 
  
  
 
 
  
  
母屋
 
  
  
井戸と上屋
 


 井戸は今も活躍しているが、主に散水用の水として利用している。  
  
  
書斎
 熊楠が研究の場としていた書斎。ここに熊楠が転居してくる前の借家に建てていたものだが、使い勝手がよいので、大工を雇って解体移築した。
 奥の机は熊楠が使っていた机で、斜めになっています。ながらく由来が分からなかったが、日記を読み解いていくうちに、普通の机を購入し、後に大工に机を切らせたことが分かった。大正11318年の日記に、「机高過テ年来読書ニ不便ナリシナリ。」とある。
 熊楠日記は大正21913)年まで
八坂書房から刊行されているが、後の部分を刊行すべく、田辺、東京、関西で翻刻作業を進めている。

 
 
土蔵


 土蔵の一階には書籍、二階に標本等が収められてた。現在は一階に二階の様子を再現している。 
 
  
南方邸の植物 


安藤みかん
 田辺・上屋敷の旧藩士安藤治兵衛の邸内に大きなみかんの木があったところから安藤みかんと呼ばれています。安藤邸のみかんが枯れると、次に大きかった南方邸の木が天然記念物に指定されました。熊楠は毎日このみかんの汁を飲み、友人にも贈り、付近の農家には栽培を呼びかけました。邸内に五本あったらしい安藤みかんの木は、熊楠の没後、あとを追うように枯れたといいます。
 みかんは接ぎ木で増やすため、熊楠が配ったみかんの木から、再び接ぎ木したものが植わっています。 


クス
 クスは、熊楠が入居したとき、すでに庭園を覆うばかりにそびえていました。熊楠の兄弟はみな藤白王子(藤白神社)で名前を授かっています。長兄藤吉、妹藤枝の「藤」、弟常樟、末弟楠次郎の「楠」、姉くまの「熊」がそうで、熊楠は兄弟の中でもひとりだけ、この藤白神社にあやかった字を二つもらいました。「熊」と「楠」です。特に弱いたちに生まれついたためといいます。熊楠は邸内にあるクスをいつくしみ、訪れる人に自慢していました。(クス=樟。漢字の楠は中国では本来タブノキを指す。)
 


センダン

 古くはオウチといわれ楝、樗の漢字があてられます。神島にも自生し、遠目に見るとフジの花のように美しいと熊楠は讃え、昭和4年、ご進講のあと、

 有難き御世に樗の花盛り

と、その心境を詠いました。また、臨終の床で「天井に紫の花が咲いている」と詩のような言葉を遺しましたが、それは夢うつつに現れたセンダンの花だろうといわれています。熊楠はセンダンの木を邸内に植えましたが、その木は枯れ、戦後に植えられた木が育っています。


柿の木
 粘菌の新属新種「ミナカテラ・ロンギフィラ」を発見した木です。粘菌はそれまで腐朽した木について成熟するものとされていましたが、熊楠は生きた木にもつく粘菌があることに着目、この柿の木のくぼみに這い上がり成熟した粘菌を発見し、イギリスの研究家G・リスターが命名、発表しました
 
 
   
  ナカテラ・ロンギフィラ発見日の謎
 今までミナカテラ・ロンギフィラの発見日は、ロンドン自然史博物館にある熊楠がリスターに送った標本の日付、1917(大正6)年8月24日とされていましたが、実はその日の日記には何も記されていません。日記に最初に登場するのは、1916(大正5)年7月9日です。この日の日記に、熊楠は「庭上の柿の生樹の皮に付る」粘菌をとり、「少量にて異品なり」と記しています。また、「Myc.504 これはMinakatella longifila G. Listerと命名の由、大正10年1月3日リスターより着の状に見ゆ」と後に追記しています。
 
   
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